こんにちは、ゆいです。

今日はどんな一日だったでしょうか。

ゆいは、娘を保育園に連れて行ったあとに朝から予定があってそのまま大阪へ。

今はその予定が終わってゆっくりとブログを書いています。

週末友達と遊んでいたときに、この時間はオフだなぁ、って思っていました。

ひとりでいても、誰かといても、いつも脳内にあるのは自分がつくりたい世界とか今つくっているもののことばかり。

時間に対して対価をもらうサラリーマン的な働き方をしていないのは自分の意思決定なので仕方なくて。

だから毎日どこかで仕事のことを考えている生活が嫌だとか言う文句があるわけでは無いのですが。

それでも、たまに無性に遊びたい欲求が高くなる瞬間がある。

最近やたらいろんなところで恋バナしてるもの、遊びたい欲求から来てたのかもしれないです。笑

週末は消費者!って感じの時間でした。

学生の頃に戻ったみたいだった、ただ目の前にある友達との時間を目一杯楽しんでいた。

普段ちょっとご飯を食べに行ったり、ふらっと遊びに行っても感じられない感覚。

特殊かもしれないですが、ゆいの周りは出かけてもみんな仕事してる笑

思いついたかのようにアイデアをメモしたり、パソコン開いて作業したり、壁打ちかの如く考えていることを話したり。

いつの間にかアドバイスが聞こえてきたり、共感して何か一緒にすることがうまれたり。

ただ、ゆいはこの環境が好きだから今この場にいて、そういうメンバーと関わっているんだと思います。

しょうもない話をするのも好きだし、恋バナとかするのも好きだし。

でも、それだけで終わらず未来の話とかやりたいことの話をするのも好き。

仕事とプライベートに明確な境界線なんてなく、どちらの要素も含みながら拡がっていく感覚がおもしろい。

ただ過去のゆいは、完全に切り分けて生きていたような気がします。

というか、切り分けないといけないものだと勝手に決めつけて、混ざり合うことを認められなかった。

実は、1年くらい前に恋愛をしないルールを敷いたことがありました。

恋愛をしてしまうと、自分の時間を相手に使いたいと思ってしまうから。

その人に嫌われない自分であろうと頑張ってしまって、その頑張っている自分を感じたときに相手に冷めてしまうから。

頑張る労力をもっと違うところに使いたいと思ったし、冷めた後にごめんなさいをするのも体力使うし。

結婚していたときもそうかもしれないですが、恋愛しているときはその時間に自分のことを考えるのが苦手でした。

目の前にいる相手に笑っていてもらうことが、相手の望む自分であることが正しいと思っていた。

求められたら求められただけ、目の前の相手に100%であろうとしていた。ただ、どんどんそれがしんどくなってしまうのがゆいだった。

でも、年明けにある子と話をしているときにひとつ衝撃を受けたことがあって。

「私は遊びに行くのは月1回以下で、でも、作業とかを一緒にしようって会える感じの恋人がいたらいいなって思うんよね」

ゆいの中には存在しない価値観だったので、運転をしながらすごく驚いたことを覚えています。

「恋愛」というものに対してどこかで固定概念をもっていたみたいです。

恋愛したらこうしなきゃいけない、だから、今のゆいには恋愛できない、みたいな。

最近思うのは、周りがどう定義づけていようが自分の価値観の中でいろんなものを定義づけしていいんじゃないかということ。

今回のゆいの例は恋愛だったけど、別に恋愛だけに当てはまる話じゃないと思っていて。

たとえば「家族」とか。

正月は本当に帰らなきゃいけないのか、たまには顔を見せに帰らなきゃいけないのか。

自分がそうじゃないと思うなら、自分の思う「家族」というものを大切にしたらいいと思います。

別に帰らなくてもいいだろうし、顔を見せなきゃいけないわけでもない。

今は電話とかzoomとかいろいろ便利なものも発達してるから、直接会わなくても話せる。元気だよって伝えられる。

ただ、何かあった時には絶対駆けつける、っていう自分の中でどうしてもぶらすことのできない重要な部分が言葉になっていたらそれでいい。

このぶらすことのできない重要な部分も、人によって違っていい。

こういうのが、どうしても譲れない価値観であり、誰かと生きると決めたときにすり合わせなきゃいけない部分なんじゃないかなと思っています。

「価値観の不一致」なんて、別れる理由として使い勝手がいいものでしかなくて。

だってそもそも、価値観なんて一致する人がごくわずかで、そんな人と出会える方が奇跡だから。

それくらい価値観は多種多様で、いろんなものが広がりを見せているから。

だからこそ、一致する人を探すんじゃなくて、擦り合わせられる人と出会わないといけない。

許容して受け止めてくれる人であるかを見極めないといけない。

そして、止めたいと思える人と一緒にいたほうが絶対しあわせ。

わかってくれると過度に期待するんじゃなくて、自分の言葉で伝えないといけないし、相手の言葉に耳を傾ける必要もある。

価値観の不一致は、擦り合わせることを諦めた証拠だから。

ゆいは、第二のかぞくを追いかけていました。今も大枠としてはそんなに変わってないです。

ただ、元旦那には一向に理解されませんでした。

理解されたくて話をしても、認めてもらいたくて家事も頑張っても、求められることに応えようとしても。

それでも、どうしても伝わらなくて、飛んでくる言葉は否定的なものばかり。

ここで言葉にもしたくないくらい、犯罪者のような責められ方をしたこともありました。

本当に誰かに裁かれてしまうような悪事を働いてしまったのか?と頭によぎったこともありました。

結果ゆいは、向き合うことから逃げてしまいました。

逃げちゃだめだって自分をずっと奮い立たせていたけど、もうそれも限界で。

ゆいは価値観をすり合わせることはできなかったんです。

ただそれは、ゆい自身も自分の価値観を言葉にできていなかったから。

なんとなく出てくる言葉に満足していたし、自分自身で言い切ることもできていなかった。

言い切ることで自分をコントロールすることもできたかもしれないけど、言い切ることがすごく怖くて。

だから、ちょっとずつふわふわした言葉を並べていて、だからすり合わせられなくて。

地に足がついたふりをしながら、全然地に足の着いてない生き方をしていた。

ゆいちゃんは地に足ついてるよ、ゆいちゃんみたいな子を増やそう、みたいな言葉がちょっとプレッシャーだった。

どうしても嫌いで嫌いで仕方のなかった自分。

自分を理解してもらう、がわからなくて、自分が相手に染まらないといけないと思っていた。

たぶん恋愛を辞めようと思ったのも同じ理由な気がしていて。

相手に染まってしまう自分がいて、でも、自分の彩を大事にしたい瞬間があって。

ありたい自分と染まった自分の乖離が苦しかったんだと思います、だから頑張っている自分を自覚した時に冷めてしまっていた。

ちょっと自分のことを好きになれて、ちょっと自分のことを認められて。

いまならもしかしたら、ありのままのゆいでいろんな人と関われるのかもしれない。

楽しい時には思いっきり笑って、悲しい時には思いっきり泣いて。

自分のこころが動くままに、表現できるものがあるのかもしれない。

大切な人に尽くせてしまうのは、誰かのために行動できてしまうのは、すごく素敵な魅力だと思う。

そんな風に動くなんて、誰にでもできることじゃない。

でも、それでちょっとずつ自分が我慢するのは違う、その結果として大切な人と一緒にいたくなくなってしまうのも違う。

だって、大切な人とは心から笑える方が幸せに決まってるから。

ゆいもそんな生き方をしたいし、そんな女の子たちを増やしていきたい。

最近新しいことをしたい欲があるので、やりたいことをいろいろ考えていきたいなと思っています。

ちなみに、今日話していた子は一緒に挑戦できることがありそうです。

こうやってゆいはプリキュアを増やしていけたら幸せだな、ってぼんやり思いながら話していました。

これも全部、ゆいひとりじゃできないって認められたから。

自分のやりたいことを大切な人たちと一緒に叶えるのって楽しいなって思ってます。

「変わりたい」「やってみたい」という小さな声を、小さなカタチに変えることを。

そして、その小さなカタチが集まって大きな幸せになることを、続けていきたい。

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