こんにちは、ゆいです。
今日はどんな一日だったでしょうか。
ゆいは、最近いろんなものに追われて忙殺された日々を送っています。
昨日も月曜日だと気付いたのは晩ごはんをつくるときでした、ちゃんと書きたいことがあったので1日遅らせての更新。
この前、「すずめの戸締り」をはじめて見ました。
「君の名は。」「天気の子」とずっと映画館に観に行っていたので上映期間中に行きたかったけど、どうしても人混みには行けなかった期間。
金曜ロードショーを予約したけど、そこに時間をつくる余裕はなくてずっと見ないまま流れていた日々。
でもちゃんと見たくて、ネタバレはずっと避け続けていました。
この前ちょっと時間をつくれたので、上映から2年経ちましたがはじめて観ることができました。
映画を見ながら、素直に泣いてました。
もともと感受性は豊かな方なんですけど、映画で泣かなくなってた時期がありました。
何を見ても感情が動かなかった。でも、今回はすごく素直に泣いてました。
幼いころのすずめが、すごく娘に重なりました。気づいたらトレースしていた。
複雑な家庭環境は、子どもの成長や発達に影響を与える。
幼いころに母親を亡くし、叔母に育てられたすずめが受け取り切れていないもの、みたいなものも感じていたのかもしれません。
きっと私がいなくなったら、この子と同じように泣くだろうと思いました。現実を受け止められないだろうって。
もしゆいがいなくなったら娘はどうなるのか、と思うと、気づいたら泣いていた。
すごく印象的なシーンがふたつあります。
ひとつは、叔母さんが「あんたのせいで」と、高校生のすずめにこれまで感じていた不満だけを伝えるシーン。
子どもがいるからできないことがある、制限されることがある。
これは、ゆいが育児をしながら仕事をする中ですごく感じている部分です。
いろんな意思決定において「娘」という存在は絶対考慮に入るし、自分の人生は自分だけのものじゃない感覚はすごく強い。
だから、悩みはつきものだし、何を選ぶのが本当にいいのかを考えつづけることになる。
でもその分、幸せももらっているし、育児をしているから経験できたことだって無限に存在する。
きっとこれは、大切だと想えるのであれば血がつながっているとかつながっていないとかは関係なくて。
みんな、育児をするということは子どもの人生に責任を負うということであり、その分子どもからの愛を受け取るという幸せも得られているということなんだと思います。
ゆいは離婚をするときに、全責任を自分で負うんだと決意しました。
子どもを産むことを決めたのも自分だし、離婚することを決めたのも自分だから。
この子がいろんなことを経験できるように、ゆいが頑張らなきゃいけないって。ひとりでやらないといけないって。
すずめの戸締りのおばさんも、自分ですずめを引き取るって決めてました。
だからきっと、不満を口にすることもできなかったし、全部自分で抱え込んでいた。
それでも得られたものがあるから、っていう感覚があるから気を遣っていたけど。きっといろんな不満があふれてしまった瞬間。
ひとりの人間が抱えるには限界が存在していて、きっと誰かの人生に責任を負うなんてひとりじゃできることじゃなくて。
自分の子どもでも難しいのに、他人の子どもだったらその子にも、その子を育てられなかった親にも責任が存在すると考えてしまうと思うんですよ。
ゆいは、自分のことも大事にしながら育児ができている感覚はあるけど。
でも、だからこそ娘に申し訳ないと思う瞬間も存在するし、いいママじゃないんじゃないかと思うこともある。
ただ、そんなゆいを、いいママだって、そんなママがいてくれてうらやましいって言ってくれる人たちがいる。
きっとこれが子どものためだ、と思っても想いが伝わらないこともたくさんあると思うけど。
それでも、なにかをしたいと思うんだよな、って。
この叔母さんも、いろんなこと考えて、これがすずめのためだって信じて、でもちょっとうまくいかなくて。
その結果あふれちゃったんだろうなと思うと、なんだかいつの間にか涙があふれていた。
あとは、何と言っても最後のシーン。
すごくいいセリフで、この言葉を娘に届け続けたいって思うと、涙が止まらなくて。
みんなきっといろんな苦難を乗り越えて、今があると思うんですよね。
ゆいもすごい暗闇を越えてきた感覚はある。
上映時期がまさにその時期だったのを観終わってから知って、ちょっとシンパシーを感じてました。
どんな暗闇もきっと抜けられるし、そんなあなたを大切だといってくれる人がいる。
当時ゆいは、誰のことも大切にできないんじゃないか、って思っていたんですよね。
人といるのが好きだけど、人と生きるのは向かない人間なんじゃないかなって。
仮にも、大切にしたいと思っていた人を、自分を守るというためだけに避け続けていたから。
もう、人のことを大切だという資格なんてないと思っていたし、そんなふうに思われる器もないって思っていました。
大切だった人のことを、どんどん嫌いになっていく自分にもう出会いたくなかった。
「嫌われたくない」と無理をしてしまう自分も嫌だった。
ならもういっそのこと、自分と娘のことだけでいいじゃないかって思っていた。
人と深い関係を構築したって、きっとゆいはうまくその関係を続けられないから。
きっとみんな、何もない、ただのピエロではりぼてのゆいに幻滅してしまうから。
ならもういっそのこと、誰のことも大切だと言いたくなかった。
でも、そんなゆいでも今は大切だといってくれる人たちに囲まれて、大切だと思える人達と一緒に生きられています。
題材は震災だったけど、でも、うごめくミミズは何か他のものも伝えようとしていたような気がして。
それが、よく女子会の中でも言葉にする「負の感情」なんじゃないかなって。
外に出たら、なにかを破壊してしまうほどの威力を持つ、そんな、自分の中でうごめいているもの。
ただきっと、誰かの力を借りれば落ち着きを取り戻せる。
ミミズの動きを抑制する要石のように。誰かがそばでわかってくれているという安心感が、次の世界へと連れて行ってくれる。
観終わった後に、当時の話をしていました。
実は、「つらかった」と当時のことを話しても、泣くことは基本的にありませんでした。
それは、泣いちゃだめだって思っていたから。
過去に戻ってしまうかもしれない恐怖や、自分で選んだ責任というものを重くとらえていた。
そして、泣くということは負けだと思っていたから。
強くなりたくて、これが正解だって言いたくて選んだ道だから、泣いたらそれが間違いになってしまう気がしていた。
でも、初めて、つらかったと泣いていました。涙がこぼれた、とかじゃなくて、何も話せずただ号泣してました。
それはきっと、抱え込んだ叔母さんの溢れてしまう負の感情を見たから。
誰かのために自分が犠牲になれるような、愛に触れたから。
死なんて運だ、って言っていたすずめが、生きたいと言っていたから。
今のゆいには、今のゆいが大切だと包み込んでくれる人であふれていると感じられたから。
そして、大切だと心から思える人がたくさんいるんだと思えたから。
すずめの戸締りを見たときに、ちゃんとこれはこの場に残そうと思ったのでブログにしました。
過去に蓋をして、記憶を封印して強がっていた自分だったと思います。
きつかったけどね、って笑っている必要があると思い続けていました。
でも、あの場で泣けたことで、泣くほどきつかったんだって言えたことで、またひとつ、次のステップを踏み出せたような気がしています。
ちょっとずつ、でも着実に、過去になっている気がする。
そんな過去を持っていても、毎日が楽しいと、充実していると、思いながら過ごすことができるから。
あなたのことが大切だと、一緒に笑うことができるから。
大切だといわれてぽかぽかする感覚に、怖さではなくしあわせを感じられるようになるから。
たまには映画鑑賞もいいな、と思った一コマでした。
ゆいのpaletteでゆいの彩を、誰かのpaletteで誰かの彩を。
そして、そのふたつの彩を混ぜ合わせられるco-paletteを。