こんにちは、ゆいです。
今日はどんな一日だったでしょうか。
ゆいは、久しぶりに大学時代の友達と会ってきました。
ゆいをいろんな世界に連れて行ってくれた友達です。世界を拡げてくれて、いろんな出会いをくれたのはこの子だと言っても過言じゃない。
好きなことを好きだと表現していいんだと伝えてくれて、自分が大事にしたいものを大事にしていいんだと教えてくれたのがこの友達でした。
ゆいはずっと、どこかに存在する正解を探す生き方をしていました。誰かの望む「ほくとうゆい」という人物像を追いかけていました。
それは、親が求める「優等生で聞き分けのいいお姉ちゃん」だったかもしれないし、先生の思う「成績優秀な生徒」だったかもしれない。どこから見ても悪目立ちしないように、みんなにいい顔をしていました。
大学時代の大好きな先輩からは「八方美人の中に自分も入ってるかもって思ってた」といわれたことがあるくらい、誰に対してもいい顔をしていました。
「ほくとうゆい」という人間は、自分の中にはありませんでした。みんなの中にある存在が変わらないように、自分の中にいる自分を表現するんじゃなくて、目の前にいる人の中にいる自分になりきろうとして生きてきました。
理由は、誰にも嫌われたくなかったから。目立ちたくなかったから。
小学生の頃は、学級委員とか、児童会とかいろんなことを積極的にするタイプだったけど、ちょっとずつ敬遠していくようになった学生時代。女の子の社会ってめんどくさいって思い始めて、やりたいことをするよりも、みんなに合わせる方が楽だって正直思っていました。
その結果、ゆいは自分のことを「ピエロ」だと感じていた。いまだに、仮面を被って着ぐるみを着た自分、と表現しています。そして、たまにその自分が出てくると嫌になる。
ただゆいはいつも、誰かの中にある自分を追いかけて生きていました。それが、自分自身の正解なんだと思っていたから。自分の中にいる自分をエゴで表現することは、間違った行いのような気がしていたから。
でも、この世の中はほとんどが正解のない問いで溢れています。
なぜ人は生きるのか、と聞かれても答えは出ないだろうし、生きる目的は何かを聞かれても、ひとによって答えはバラバラになる。愛と恋の違いは何か、みたいなことをこの前聞かれましたが、それもきっと正解は存在していない問い。
ただ、世の中の正解は存在しないけど、自分の思う答えを正解にする生き方はできる。
そして、自分の中にある答えを正解にすることこそが、ゆいは生きているということなんじゃないかって思っています。だって、ピエロの自分は生きている実感がないから。
昨日Xで「叱らない育児って何がいいと思いますか?」みたいな投稿を目にしました。その人のロジックでは、「叱られなかった子=将来生きるのが大変になる子」という等式が成り立っていたみたいです。
ただ、育児なんて何が正解かわからないし、同じ育児をしたとしても全然違う大人になるんですよ。
うちもふたり姉弟だけど生き方は全然違います。
大学に進学して休学して、シングルマザーしながらフリーランスと事業立ち上げでお金を稼いでる私と、普通に大学進学してストレートで卒業してサラリーマンをしている弟。別れて暮らしていたのは私が大学に進学してからだから、ずっと同じ環境で生きていました。
それでも、こんなにも人生は違うし、性格も大事にしたいことも違う。
だから、うまくいった育児をトレースしたってうまくいく保証なんてなくて、それはただ、自分の子どもに対する育児の責任をちょっとどこかに分散したいだけ。
「だってあの記事に書いてたから」「だってこの人がそうやって育児したって言ってたから」って何かあったときに言いたいだけ。
叱らない育児も、誰にでも当てはまるわけじゃないし、やり方だっていろいろあるはずで。
ただ、叱られてたら委縮しちゃうよね、意見言えなくなっちゃうよね、だから叱らずに意見聞いて諭す方がいいよね、って言いたい人がいるだけ。そういう価値観で教育をしている人たちがいるっていうだけ。
でも、なぜか人は目の前にあるもの「正解」なのか「不正解」なのかを気にしてしまう。そうやって分類しようとしてしまう。
これはね、正解を追いかける勉強ばかりしてきたからだと思っています。正解を追いかけることが正しいことだといわれてきたから。
でも、叱らない育児が正解かどうかはわからないけど、自分の中で正解にすることはできる。自分たち親子の正解にすることはできる。
こういうことを論じる人たちが何を考えているのかはゆいにはわからないし、もしかしたら客観視したらゆいも同じような分類に入るのかもしれないけど。
誰の意見が正解かじゃなくて、目の前の子どもが何を求めているのかに目を向けられる大人が増えてほしい。そっと耳を傾けられる人に囲まれて、子どもたちには成長してほしい。
この前友達に「寝んトレは果たして必要なのか」という質問をされました。ゆいの答えは「必要だと思ったら必要」。困ってないなら別に急がなくていいと思うよ、って返しました。だって、どうしても教育方針としてしたいと思っているなら、ゆいに相談することなく選んでいるはずだから。
育児ってわからないことだらけなんですよね、そして、不安でいっぱいになることなんですよ。だって、20数年生きてきて、全く経験してないことを急にすることになるから。そしてそれが、目の前の子どもの人生を左右しかねないから。
だから、誰かの意見に縋りたくなるし、いいって言われたことはやったほうがいいような気がしてしまう。先人たちの声がすべてのような感覚になるから。経験者の意見に縋ることで安心を得られるから。
ゆいはずっと、いろんな大人に囲まれて、いろんな人に愛されてほしいと思っていました。そのための環境をつくり続けていたつもりでした。でもそれは、元パートナーにはうまく理解してもらえず、認識の齟齬が起こり続けていました。
最終的には、自分勝手に娘を振り回しているだけだといわれてしまい、すべてやめて、俺の仕事を支えることに集中して、とも言われました。
その時、すごく悩みました。自分が子どもに届けたいと思っていることは間違っているのかもしれない、って何度も思ったし、すべてエゴを押し付けているだけなんじゃないかって考えつづけました。自分のことを「最低なママかもしれない」って思ったことも何度もありました。実際、精神的に病んでしまった原因はここにありました。
そして出た結論は、ゆいは自分が大事にしたいと思うものを大事にした育児をする、ということでした。何が正解かなんてわからないから、ゆいの思う正解を娘と二人の正解にしようと決めました。
ゆいの思う育児や教育方針が良かったのかどうかは、後15年くらい経たないと分かりません。娘が大人になったときにどう感じるかがすべてだから。
でも、きっとこれでよかったと笑ってくれると思うし、これから先も笑ってくれるようにいろんなことをしつづけるのみだと思っています。それが、正解にする生き方をする、だと思っているから。
ちなみに、シェアハウスでの生活をはじめて、いろんな人とかかわる時間がより増えて。それでいて、毎日楽しそうに生きる娘の姿に、これで間違えてなかったんだよな、って思わされているのも事実です。
いろんな意思決定を経た結果の今ですが、どの意思決定も違っていたらこの未来はなかっただろうし、こんなにも笑えてなかった気がするから。
昔、自分の中にいなかった「ほくとうゆい」という人間は、今自分の中にいると思います。そして、ゆいの中にいるゆいを愛してくれる人たちで溢れている。
それでいいんだよ、そのままで素敵だよっていってくれるひとたちに囲まれて、ゆいは毎日を充実した日々だと定義できているし、だから毎日心から笑えている。
そして、だからこそゆいはゆいらしく世の中の風潮とか当たり前とかを度外視して、ゆいがいいと思う育児を追いかけられているんだと思います。こんなふうに娘とかかわりたい、っていうのを素直に表現できている。
きっとその方が親自身も幸せだし、そんな親と一緒にいられた方が子どもも幸せだろうって思うから。ゆいは、ゆいみたいなやり方とは言わないけど、自分の中で大事にしたいものを大事にしながら自分らしく育児ができるママを増やしたい。
世の中とか最近の傾向とかどうでもいいから、自分がこれがいいと思うって胸を張って言える育児をできる方が、きっと将来家族で笑えると思うから。
ゆいのpaletteでゆいの彩を、誰かのpaletteで誰かの彩を。
そして、そのふたつの彩を混ぜ合わせられるco-paletteを。
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