こんにちは、ゆいです。
今日はどんな一日だったでしょうか。
ゆいは昨日の夕方から若干のどに違和感があって、昨日は寝かしつけをしながら寝落ちていました。起きたときには体が若干重かったんですけど、しばらくすると落ち着いてきた感。そのまま変わらず一日仕事をして過ごしていました。
無理をしすぎて体調を崩してしまうのは本末転倒なので避けたいですが、気づいたらいつも時間が過ぎていることが多くて。急いで寝て起きて、保育園に連れて行く生活です。低血圧には朝がほんとにきつい。
ただ、起きたときには「保育園から帰ってきたらもうちょっと寝よかな」と思うんですけど、往復してる間にそれなりに血圧が上がってくる。そしたら、もう寝なくていいかなぁ、ってなっちゃうんですよね。そんなことを繰り返してるから睡眠不足が加速していく。
娘は「睡眠不足」という単語を最近覚えました。昨日は保育園からの帰りに「今日は睡眠不足だったから、早く寝て早く起きるー!」と宣言してくれました。笑
親からの愛は見返りのない無償の愛だ、といわれることが多いと思いますが、ゆいはむしろ反対なんじゃないかと思うことがいっぱいあって。子どもから無償の愛を受け取っているなと思うことでいっぱいです。
些細な成長も、小さな報告も。毎日のちょっとした変化を目の前で見させてくれることが愛であり、親にしか見せない表情そのものが愛である。
ただ、愛というのは人によって表現方法が違う九て、ひとによってそれを愛として受け取れる人がいれば、受け取ることのできない人も存在する。ただ、大人になればなるほど「見返り」を求めてしまったり、「愛されたい」と求めてしまったり。
その結果として、純粋に誰かを想う「愛」というものが、純粋なものではなくなにか目的の存在する愛情表現に変化していく。そして、「無償の愛」という見返りのない親からの愛がいかに尊いものだったのかに気付くことができる。
この前住人達と夜中1-2時間くらい「愛」と「恋」の違いについて議論していました。
ゆいの中の定義は「恋」はいいところを好きだといえることで、「愛」はダメなところも含めて好きだといえること、だと思っています。恋はときめくし、ドキドキする。でも、愛になるとちょっとその心の高鳴りというものは安定していく。
一緒にいる時間が長くなれば長くなるほど、いろんなものが当たり前に変化していく。心が高鳴る瞬間が少なくなると、「好きじゃなくなったのかな」って勘違いしたり、なんだかちょっとさみしくなったりすることもあると思ってて。でも、それは実はすごく愛があるからできていることだったりする。
私の結婚生活は、愛情表現がそれぞれ異なり、相手からの表現を感じ取ることができなくなった結果すれ違いが起こったと思っています。お互いが自分中心の愛情表現を繰り返していた。そしてその対価として、自分が受け取れる愛を求めていた。
「わかってほしい」とお互いが思っていたし、「頑張ってよ」って相手に求め続けていた。「これが欲しい」ってわがままばかり言っていた。それはきっとお互いがまだ子どもで、精神的に自立していなかったから。自立していないい子どもが親になって、自立しているひとであろうと必死だったから。
でもやっぱりそれじゃうまくいかない。それは、「愛してる」と相手に何かを伝えているのではなく「恋してる」と自分の状態を定義しているだけ。愛には明確に対象が存在する。「~のことを愛している」が動詞として活用する時の違和感のない文章だから。それに対して恋は「私は恋してる」と対象を明確にしなくても使える言葉だから。
だからほんとは、恋してるときよりも愛してるなと思える時のほうが尊いものだと思うんですよ。ダメなところもあなたらしくていい、なんてそんなふうに思える相手はほとんどいないはずだから。そこまで自分を理解してくれる人なんてめったに現れないから。
ただ、そういう人に出会うためにはいくつかの条件はある気がしていて。
「愛されたい」なんてそもそも思ってる間は愛されなくて。だって、相手からの「愛」を求めている間は、自分が届けられるのは愛ではないから。それは、不安や依存心からくるもの。
ちなみに、ゆいも昔はこっちタイプだったと思います。愛されていたかったし、愛されているんだという実感がほしいと思っていました。誰かと常につながっている感覚が欲しいと思っていて、ひとりになるのがすごく怖かった。
周りの顔色を窺っていたのも、長いものに巻かれて生きていたのも、誰かからの愛を求めていたから。自己肯定感が極度に低くて、承認欲求がすごく強い人間でした。今でも気分が落ちたときはこの頃の自分に逆戻りする感覚があります。
ただね、本来の愛ってこういういことじゃなくて、このカタチの愛はきっといびつで歪んでいる。愛されていると実感したくてする質問も行動も、実は虚構で空虚なものでしかなくて。だから、求めたら求めるだけ届いたときに虚しさだけが残ってしまう。
今のゆいは、自分のことを昔よりも好きだと思えるようになりました。できることもできないこともあるけど、それもすべてひっくるめて自分なんだと、自分自身のことを認めてあげることができる。
そうじゃないと、誰かに依存しないと生きていけなくなるし、他人からの愛がないと不安で仕方がなくなってしまうから。そのままだと自立できなくて、パートナーと対等な関係を築けないし、それは健全な関係性だとは言えないから。
誰かからの愛を求めるよりも、まずは自分が自分を愛せるようになることが大事。
実際、この1年半くらいでゆいは自分のことを愛せるようになったなと思います。そのおかげで、自分の意見を素直に表現できるようになったし、依存ではなくただ純粋にひとに甘えられるようになった。
頼りたいときは助けてって言えるし、違和感があったらちゃんとテーマを投げかけて対話ができる。昔のゆいは、嫌われるのが怖くて、見限られるのが怖くて、自分の中にある違和感とかは表現できませんでした。自分が我慢すればいいんだって本気で思っていた。
誰かを愛したいと思い続けた結果、ずっと自分への愛が足りなかった。自分のことをずっと適当に扱い続けていた。自分のことを自分が粗末に扱っているくせに、誰かには大切に扱ってほしかったし、誰にも見捨てられたくないと思っていました。
でもその癖、自分が自分を認めていないから誰かからの愛を拒絶してしまうこともあって、すべてがいびつになっていた。誰かに認められない自分は存在価値がないと思っていたし、でも、誰かに時間を使ってもらえる人間じゃないと思うから、認められるのも申し訳なかった。
でも、そのままだと何も健全な関係性じゃない。
今、ゆいの隣にいてくれる人は、ありのままのゆいでいいんだとずっと言い続けてくれた人で、でもゆいがずっとその自分を認められなかった人でした。だから長年一緒にいるけど、ずっとちょっと気を遣っていたし、嫌われるのが怖いって思い続けていました。素直な自分を表現したいと思っているし、限りなく素に近い感覚はあったけど、それでもゆいはずっと何かをまとっている感覚がありました。
だから、お願いもできなかったし、甘えるのもすごく怖かったです。違和感を伝えるのもできなくて、自分が全部合わせたらいいと本気で思っていました。
でも、この数か月でやっと素直にいろんなことを表現できるようになったと思います。それは、自分自身が精神的に自立したから。依存ではなく、対等な関係性でいられるようになった結果が今だと思う。
ゆいは、苦しいパートナーシップを乗り越えた人です。同じような想いをする人はひとりでも少ない方がいいと思うくらいには、不健全なパートナーシップの中でたくさん泣いた人生でした。だから、健全なパートナーシップを築けるような環境をつくっていきたい。
ただ、そのためにも女の子たちが精神的に自立できることを大事にしたい。相反するように見えるふたつかもしれないけど、どちらにも相関関係があるはずだから。どちらかだけじゃ得られない幸せが、ゆいはあると信じてみたいと思っているから。
これからの女子会がつくっていくものは、こういう部分なんじゃないかなと思っています。ゆいは精神的に自立をして、周りの人たちと対等に笑える女の子を増やしていきます。
ゆいのpaletteでゆいの彩を、誰かのpaletteで誰かの彩を。
そして、そのふたつの彩を混ぜ合わせられるco-paletteを。
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