こんにちは、ゆいです。
今日はどんな一日だったでしょうか。
ゆいは、いつも通りの生活を送っていました、今は大阪。
娘ももう泣かずに保育園に行くようになりました、なんならお友達が増えていっぱい名前を教えてくれます。
ちょっとずつ成長して、ちょっとずつゆいの知らない世界を知っていく。
子どもの成長には喜びも一抹のさみしさもあるみたい。
最近、自分のつくりたいものをつくっている感覚があります。
「プリキュアを増やす」という言語化をしていますが、調べれば調べるほど、自分が増やしたいのはプリキュアなんだなと思わされる。
ただ日常を生きている女の子たち。何か特別なものを持っているわけでもなく、ただ妖精と出会ってきっかけをもらっただけ。
何かのきっかけで落ち込んでしまうこともあるし、病んでしまうこともあるし。
そしたら変身できなくなってしまう。
でも、仲間に支えられてそのネガティブな状態さえも跳ね返してしまう。
ほかにもいっぱい要素はあるんですけど、ゆいのなかでこれだな、って特に思うのはこのあたり。
あとは、敵を「悪だから」と殺したりとどめを刺したりするのではなく、解放や説得に向かうところ。
プリキュアの敵は人間の中にあるネガティブな感情。
だれかに対する嫉妬とか怒りとか、それ以外にはこの世に対する絶望とか。
そういう負の感情を利用してモンスターが現れている感覚があるんですよね。
ただ、そのモンスターを「やっつける」という表現ではなく「負の感情から解き放してあげる」という表現をする。
負の感情に支配されているだけだから、その感情から解放する。
人間だって誰しも負の感情に飲み込まれてしまうときがあって、そのせいで誰かに八つ当たりしてしまうこともある。
ものに当たってしまうときもある。
でも、そのひと自体を否定していいわけなくて、そんな時こそ耳を傾ける必要がある。
プリキュアは思っていたよりも奥が深いみたいです、詳しい人はぜひ話しましょう。
こんなことを考えながら、じゃあどうすればプリキュアが増えていくような場所をつくれるのか、みたいなことを考えています。
この場だからできることであり、この場じゃないとできないことを探し続ける毎日。
この前のまじかるちーとでいは、この場だから感じられることを感じてもらえる場がつくれたんじゃないかなと思っています。
ちょっと自分の中に目を向けたから、普段話せないことをちょっと言葉にしてみたから。
そして、同じように悩む人がいると分かり、自分もありのままの自分を解放したいと思えたから。
わかんないけど、あの場で流れた涙にはそんな意味があるんじゃないかなと思っています。
そんなことを考えていると、全部エゴでいいんだなと思うようになってきました。
万人が涙を流してくれたり、共感してくれたり、関わりたいと思ってくれたり。
そんなものってきっと存在しないし、つくれないだろうなって。
それよりも、本当にやりたいことを、本当に届けたいものを、自分のエゴでもいいから貫くことが大事なんじゃないかなって。
ずっと、「何やってもゆいのエゴだし」って思っていました。
自分がこんなもの欲しいと思っても、それは全部自分のエゴでしかなくて。
誰かにこんな風になってほしい、こんなことを感じながら生きてほしい、なんて傲慢でしかなくて。
だからカタチにするために動くのがすごく怖かった。
そんなのあなたのエゴだからいらない、といわれることが怖くて、必要ないって言われる恐怖がつきまとっていた。
ゆいは、ネガティブなフィードバックにばかり目が向く人間でした。
だから、一人でも「つまらない」「価値がない」と思うものじゃいけないと思っていた。
でもこの前気づきました、それは間違ってたんだって。
ひとりでもつまらないと思うものは意味がないんじゃなくて、ひとりでも価値があると目を輝かせてくれるものをつくることに意味がある。
だって、この世で売れてるものも結局めっちゃ好きな人がいればめっちゃアンチな人がいる。
ただ、めちゃくちゃ求めてくれる人がいるから、そのサービスは継続されているし、価値があるといわれ続ける。
だから、「興味がない」という人を見ても仕方がないから、「価値があった」と伝えてくれる人に目を向け続ける。
どれだけ頑張っても、万人にウケるものなんてつくれないから。
実際ね、イベントの事後アンケートで厳しいこと言われるといつも泣きそうになってました。
あーなんでこの子たちが「めっちゃよかった」って思ってもらえるものをつくれなかったんだろうって。
お金を払う、時間を使う価値がなかったといわれてるわけじゃないのに、そんなクレームじゃなくてよりよくなるための一意見のはずなのに。
そんなコメントばかりにいつも目を向けて、もっとよくしようじゃなくてやっぱり自分はダメなんだって自分のことを責めてた。
でもこの前のイベントはまじでそのコメントは一意見だな、参考にしよう、って思うくらいで。
これは狙ってやってたからそれでいい、こういう子たちには刺さらないのかぁ、っていう感覚でした。
その時思ったのは、ゆいは自分のエゴを押し付けることに対して開き直ったんだということ。
ゆいのやりたいことなんて全部エゴなんだよ、ってずっと思っていました。
エゴの押し付けなんてしたくないって思っていて、だからいろんなことのハードルがずっと高くて。
これしてみたいな、と思っても、でも相手は望んでいないのかもしれないからって足を止めてた。
あそこ行ってみたいな、と思っても、目の前のひとは興味ないかもしれないし、って提案さえもしなかった。
好きなものを布教するとか、自分の行きたいところに連れていくとか、やりたいことするとかほんとに苦手。
そして、なんでかわからないけど、一緒にしよう、といわれたら相手に合わせてしまって申し訳ない、って思っていました。
ゆいに時間を使ってもらって申し訳ない、ゆいに思考を割いてもらって申し訳ない、ゆいのやりたいことに付き合わせて申し訳ない。。。
そんな風にずっと思っていました。
自分主体で何かをつくることはしたくなくて、誰かのつくりたいものを一緒につくりたいって思ってた。
その人が目の前で笑ってくれるから、楽しいって感じて生きてくれるだろうから。
それが、ゆいなりの輝いている人たちと一緒に生きる手段で、誰かの目の彩が変わる瞬間に立ち会う方法でした。
それ以外には持ち合わせていなかった。
でも、結局どこか一緒にする相手に対しての申し訳なさを感じていました。
自分でやったほうが早いかもしれないのに、やりやすいかもしれないのに。
自分に時間を使わせてしまっている感覚と、ゆいがしたいっていうから考えてくれてるんじゃないかっていう申し訳なさ。
「一緒にしたい」なんて言わなきゃ、この人が悩む時間もなければ、ゆいに使う時間も減らせるんじゃないかって。
だから余計に、できる自分でありたくて強がっていた。
できない自分が露呈された瞬間に、嫌われると思っていたから。
でも、ほんとに、プライベートも含めて最近吹っ切れている感覚があります。
まぁ我慢すればいいか、で自分の本心隠すことも少なくなって、譲れないところは譲らなくなった。
エゴだと誰に言われてもいいから追いかけたいと思えた。
それで笑ってくれる人がいるから、ゆいはそういう人たちと一緒に生きていきたいと思えるから。
だからといって、多くの人をどうでもいいと思うわけでは無く、みんなのことが大事だけど。
それでも、自分のことも同じくらい大切にしてあげたい。
そして、ゆいは誰かの想いを汲み取ってカタチにしてあげられる人になりたい。
かつてのゆいがたくさん救われたから。何度手を離そうとしてもつなぎとめてくれた人たちがいるから。
ゆい以上にゆいを信じて、一緒に生きてくれる人たちがいるから。
やりたいことを「やりたいんだ!」と大声で話せるような誰かにとっての居場所をつくり続けます。
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